「亜炭産業の盛衰」 - 中山道みたけ館

2018.6.7 みたけ (83) 中山道みたけ館 - 「亜炭産業の盛衰」 1240-1660
亜炭産業の盛衰
亜炭(あたん)はおよそ2,000万年まえの植物が堆積(たいせき)し、炭化した石炭の一種ですけど、石炭ほど炭化度がすすんでない、いわゆる褐炭(かったん)の部類にはいるもんです。光沢のない黒褐色で含有水分がおおく、堆積のきめにそってはがれやすく、発熱量もひくいっていう性質を有します。
亜炭は1869年に燃料となることがわかって以来、家庭や工場で使用されるようになり、第2次世界大戦前后には需要が急速にのび、この地域の重要産業となって鉱山のかずも爆発的に増加しました。しかし、乱掘による悲惨な事故もあいつぎ、くわえて燃料革命による液体燃料への変換がすすんだため、衰退することとなりました。
(83) 中山道みたけ館 - 「亜炭産業の盛衰」

2018.6.7 みたけ (84) 中山道みたけ館 - 亜炭鉱の模型 2000-1480
(84) 中山道みたけ館 - 亜炭鉱の模型

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2018年6月なのか、おとずれた。


「しゅくばをたすけたすけごう」 - 中山道みたけ館

2018.6.7 みたけ (82) 中山道みたけ館 - 「しゅくばをたすけたすけごう」 850-1700
しゅくばをたすけたすけごう(助郷
街道のしゅくばに常備された人馬の使用のみではつぎおくりできん通行があったばあい、しゅくばに人馬を提供して援助するよう周辺の農村に命じたものをすけごう(助郷)っていいました。中山道でのすけごうのはじまりは1603年、奉行大久保石見守長安(おおくぼいわみのかみながやす)が御嶽宿(みたけじゅく)へだした「伝馬定書(てんまさだめがき)」(野呂家(のろけ)文書)の下付(かふ)っていわれております。
幕府は1694年、参勤交代の制度化にともなう輸送量の増加のためすけごう制(助郷制)をさだめました。
地図=伏見・御嶽・細久手宿すけごうむら(助郷村)(1694年)
(82) 中山道みたけ館 - 「しゅくばをたすけたすけごう」

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2018年6月なのか、おとずれた。


中山道御嶽宿(なかせんどうみたけじゅく)の説明かんばん

2018.6.7 みたけ (80) 「中山道御嶽宿」 1020-900
中山道御嶽宿(なかせんどうみたけじゅく)
御嵩町(みたけちょう)元町
1600年9月、関ヶ原のたたかいに勝利した徳川家康はただちに宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)へと着手し、1602年には中山道すじでもいちはやくここ御嶽宿に「伝馬掟朱印状(てんまおきてしゅいんじょう)」をくだしたことから、重要な拠点とみなしとったことがうかがえます。
御嵩宿は江戸から49番めのしゅくばにあたり、天保年間(1831年から1845年)の「中山道宿村大概帳(なかせんどうしゅくむらたいがいちょう)」には、宿内まちなみ4町56間(およそ540メートル)、いえのかず66軒(うち、はたごや28軒)、このほか本陣、わき本陣が各1軒、といやば(問屋場)、こうさつば(高札場)などの存在が記載されております。
しゅくばはにしはしの天台宗の古刹(こさつ)大寺山願興寺(おおてらさんがんこうじ)からかぎのてをぬけてひがしへとつづき、大名や公家あるいは一般庶民の通行とともに、情報や文化の交流するばしょとしておおいににぎわいました。
御嵩町御嵩町観光協会
(80) 「中山道御嶽宿」

2018.6.7 みたけ (81) 御嶽宿の地図 1680-1880
中山道ぎふ17宿
江戸日本橋から京都三条大橋まで69宿[135里24町8間(およそ532キロ)]。この中山道の4分の1相当(およそ128キロ)が美濃国、、、
御嶽宿
中山道49番めのしゅくばとなる御嶽宿(みたけじゅく)は、大寺山願興寺(おおてらさんがんこうじ)の門前まちとしてさかえ、1602年、中山道のしゅくばのなかでもいちはやく整備されると、、、
(81) 御嶽宿の地図

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2018年6月なのか、おとずれた。


サイトのしんぴょうせいに疑問 - 八丁みその署名

八丁みその署名活動については、先月2018年5月29日から「岡崎の伝統を未来につなぐ会」のかたたちのてによってはじまったとこだけど、インターネットにのっとるつぎのような署名あつめサイトはしんぴょうせいに疑問がある。

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2018.5.31 「change.org」の八丁みそ署名あつめサイト

ブログ移行のお知らせ

「はてなブログ古井町内会」につきましては2017年度より「古井町内会たより」に移行しました。引き続きご愛読いただきますよう、よろしくお願いします。

2017年3月25日
古井町町内会長 稲垣実