おぼえがき(あきひこのいいたいほうだい)

2018年6月ここのか、ブログ名を「古井町内会」から「おぼえがき(あきひこのいいたいほうだい)」に変更

トヨタかぶぬし総会 - 2018年6月じゅうよっか

2018.6.14 豊田 (18) トヨタかぶぬし総会送迎バス - トヨタ本館ホール 2000-1500
(18) トヨタかぶぬし総会送迎バス - トヨタ本館ホール

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「重要文化財願興寺本堂保存修理工事について」

2018.6.7 みたけ (101) 願興寺 - 「保存修理工事について」 1970-1400
大寺山願興寺(おおてらさんがんこうじ)について
願興寺は旧中山道御嶽宿*1にある天台宗寺院で、大寺山って号し、ふるくから蟹(可児)薬師のなでしたしまれ、ひろく民衆の崇敬をあつめてきました。
てらの草創は、寺伝(じでん)によれば伝教大師(でんぎょうだいし)*2東国下向(とうごくげこう)のみぎり、この地にとどまり、小堂を建立し、自作の薬師如来像をまつったことにはじまるっていわれております。
当初の伽藍(がらん)は、1108年に兵火によって焼亡しましたけど、貞治(じょうじ)(1362年から1367年)、応永(おうえい)(1394年から1427年)ごろには諸堂が再興されました。しかし1572年には武田信玄の兵火によりふたたび焼失し、1581年に本堂のみが再建されました。
現在の本堂はこのときのもんで、近在の百姓、玉置興次郎と市場左衛門太郎の2名が発願(ほつがん)し、近隣のひとびとから浄財をあつめて建立したっていいます。
たてもんはけたゆき7間、はりま5間、よせむねづくり、鉄板ぶきの大規模な本堂で、正面に縁と1間の向拝(こうはい)をもうけております。平面は周囲1間どおりを開放とするめずらしい構成で、意匠は正面には注力しておりますけど、ほかの部分は簡略化されており、使用されとる材料には、寺院にはあんまりもちいん、まがったはしらなどがみられます。
有力な施主をもたず、造営費用に苦心しながらも民衆がちからをあわせて建立したたてもんであることがようわかります。
保存修理工事について
願興寺本堂は、やねのふきかえなど、これまでにいくどもの修理をおこなってきましたけど、再建からおよそ430年が経過し、もはやちいさな修理ではおいつかんほどたてもんの破損が進行しておりました。
ほのため、くに、岐阜県御嵩町の補助をうけ、総事業費12億8,500万円をかけて、2017年11月より、保存修理工事をおこなうこととなりました。
こんかいの修理は「解体修理」で、たてもんをいったんすべて解体し、補修してくみなおす根本修理です。いたんどるふるい材料は、あたらしい材料にとりかえるもんもありますけど、できるだけ修理してもとのばしょにつかうことにしております。また、部材の加工やくみたてのさいにも、原則としてにほんの伝統工法をもちいます。
通常の新築工事とくらべるとてまがかかるため、工事期間はのべ105か月(8年9か月)を要し、完了は2026年7月31日となる予定です。
工事は、2018年度に本堂全体をおおう鉄骨の「すやね(素屋根)を建設し、ほのあと2019年度から解体にとりかかる予定です。
(101) 願興寺 - 「保存修理工事について」

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2018年6月なのか、おとずれた。


*1:原文では「御嵩宿」

*2:最澄(さいちょう)のこと

「1842年ごろの御嶽宿のやなみ図」

2018.6.7 みたけ (86) 「1842年ごろの御嶽宿のやなみ図」 2000-1360
(86) 「1842年ごろの御嶽宿のやなみ図」

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2018年6月なのか、おとずれた。


「亜炭産業の盛衰」 - 中山道みたけ館

2018.6.7 みたけ (83) 中山道みたけ館 - 「亜炭産業の盛衰」 1240-1660
亜炭産業の盛衰
亜炭(あたん)はおよそ2,000万年まえの植物が堆積(たいせき)し、炭化した石炭の一種ですけど、石炭ほど炭化度がすすんでない、いわゆる褐炭(かったん)の部類にはいるもんです。光沢のない黒褐色で含有水分がおおく、堆積のきめにそってはがれやすく、発熱量もひくいっていう性質を有します。
亜炭は1869年に燃料となることがわかって以来、家庭や工場で使用されるようになり、第2次世界大戦前后には需要が急速にのび、この地域の重要産業となって鉱山のかずも爆発的に増加しました。しかし、乱掘による悲惨な事故もあいつぎ、くわえて燃料革命による液体燃料への変換がすすんだため、衰退することとなりました。
(83) 中山道みたけ館 - 「亜炭産業の盛衰」

2018.6.7 みたけ (84) 中山道みたけ館 - 亜炭鉱の模型 2000-1480
(84) 中山道みたけ館 - 亜炭鉱の模型

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2018年6月なのか、おとずれた。


「しゅくばをたすけたすけごう」 - 中山道みたけ館

2018.6.7 みたけ (82) 中山道みたけ館 - 「しゅくばをたすけたすけごう」 850-1700
しゅくばをたすけたすけごう(助郷
街道のしゅくばに常備された人馬の使用のみではつぎおくりできん通行があったばあい、しゅくばに人馬を提供して援助するよう周辺の農村に命じたものをすけごう(助郷)っていいました。中山道でのすけごうのはじまりは1603年、奉行大久保石見守長安(おおくぼいわみのかみながやす)が御嶽宿(みたけじゅく)へだした「伝馬定書(てんまさだめがき)」(野呂家(のろけ)文書)の下付(かふ)っていわれております。
幕府は1694年、参勤交代の制度化にともなう輸送量の増加のためすけごう制(助郷制)をさだめました。
地図=伏見・御嶽・細久手宿すけごうむら(助郷村)(1694年)
(82) 中山道みたけ館 - 「しゅくばをたすけたすけごう」

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2018年6月なのか、おとずれた。


中山道御嶽宿(なかせんどうみたけじゅく)の説明かんばん

2018.6.7 みたけ (80) 「中山道御嶽宿」 1020-900
中山道御嶽宿(なかせんどうみたけじゅく)
御嵩町(みたけちょう)元町
1600年9月、関ヶ原のたたかいに勝利した徳川家康はただちに宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)へと着手し、1602年には中山道すじでもいちはやくここ御嶽宿に「伝馬掟朱印状(てんまおきてしゅいんじょう)」をくだしたことから、重要な拠点とみなしとったことがうかがえます。
御嵩宿は江戸から49番めのしゅくばにあたり、天保年間(1831年から1845年)の「中山道宿村大概帳(なかせんどうしゅくむらたいがいちょう)」には、宿内まちなみ4町56間(およそ540メートル)、いえのかず66軒(うち、はたごや28軒)、このほか本陣、わき本陣が各1軒、といやば(問屋場)、こうさつば(高札場)などの存在が記載されております。
しゅくばはにしはしの天台宗の古刹(こさつ)大寺山願興寺(おおてらさんがんこうじ)からかぎのてをぬけてひがしへとつづき、大名や公家あるいは一般庶民の通行とともに、情報や文化の交流するばしょとしておおいににぎわいました。
御嵩町御嵩町観光協会
(80) 「中山道御嶽宿」

2018.6.7 みたけ (81) 御嶽宿の地図 1680-1880
中山道ぎふ17宿
江戸日本橋から京都三条大橋まで69宿[135里24町8間(およそ532キロ)]。この中山道の4分の1相当(およそ128キロ)が美濃国、、、
御嶽宿
中山道49番めのしゅくばとなる御嶽宿(みたけじゅく)は、大寺山願興寺(おおてらさんがんこうじ)の門前まちとしてさかえ、1602年、中山道のしゅくばのなかでもいちはやく整備されると、、、
(81) 御嶽宿の地図

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2018年6月なのか、おとずれた。